桑名城

別名 旭城
     扇城 
付近住所 三重県桑名市吉之丸  現在 九華公園
2010/1/11 碑・案内板・銅像アリ


大多喜藩より
本多忠勝→
本多忠政
姫路藩

伏見藩より
久松
松平定勝→
松平定行
松山藩へ

大垣藩より
久松
松平定綱→
松平定良→
松平定重
高田藩へ

福山藩より
奥平
松平忠雅→
松平忠刻→
松平忠啓→
松平忠功→
松平忠和→
松平忠翼→
松平忠堯
忍藩へ

白河藩より
久松
松平定永→
松平定和→
松平定猷→
松平定敬→
松平定教
          
桑名城の沿革
 戦国時代、この付近には伊藤氏が支配する東城と呼ばれる城がありました。戦国末期、桑名地方は織田信長に平定され信長の家臣瀧川一益(かずます)の支配を受けました。豊臣秀吉の時代には、一柳右近や氏家行広が治めました。
 桑名城に始めて天守閣が築かれたのは文禄4年(1595)で、伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したといわれています。
 桑名に本格的な城郭が築かれたのは慶長6年(1601)です。徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、徳川四天王の一人で腹心の本多忠勝を桑名に配置しました。忠勝は東城があった所を中心に縄張りを行い、近世城郭を造りました。同時に城下町の整備も行い、大山田川・町屋川の流れを変えて外堀に利用し町の守りとしました。忠勝の行ったまちづくりを「慶長の町割り」と呼びます。
 桑名城は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができました。天守閣は四重六層の勇壮なものでしたが元禄14年(1701)の大火で焼失し、以後は再建されませんでした。門や櫓の数は多く、享和3年(1803)の記録には、本門や路地門などを合わせて63ヵ所、櫓は95ヵ所とあります。
 しかし、幕末戊辰の役(1868)の時、桑名藩は旧幕府方につき、藩主松平定敬(さだあき)は東北地方を転戦し、最後は五稜郭で降伏しました。その間に国元は新政府軍に降伏し、無血開城して市内は兵火を免れました。新政府軍は天守閣の代わりとなっていた三重の辰巳櫓(たつみやぐら)を焼き払い、桑名城落城のしるしとしました。その後桑名城の石垣は取り払われ、四日市築港の資材とされました。

     

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